民藝
- Jay
- 2015年9月21日
- 読了時間: 1分
更新日:2019年12月2日
目の前に置かれたブリキ絵をあらためてみれば、これは美術でもなければ工藝美術品でもない。機能、働きとしてブリキ絵の「用」を解しようとしたところで、それは祈りの証、といっても極くささやかなものとして生み出された、一枚の板っきれに過ぎない。それはある種、美醜を超えたところに存在する。なので正直、ブリキ絵を「美」ということが適切なのかも、分からない。ブリキ絵に記されているのは、祈りとよろこび、それだけでしかないから。そして、それゆえにこそ、かえって「うつくしさ」を見出してしまう。そして柳が一九二五年の冬に「民藝」という言葉を生み出してまで取り戻そうとしたものも、ここにあったのだと思う。つまりは目の前のものが「にもかかわらず、うつくしい」という事実をただ見る、ということだ。
高木崇雄「『そのまま』なもの」(『工芸 青花』2号, 2015, p. 123)
Comments