The Cow (1969) dir. Dariush Mehrjui
ダリウシュ・メールジュイ『牛』は近代化の恩恵いまだ遠く、イランの草原の果てに人々が身を寄せ合って暮らす小さな集落が舞台。中年の逞しい男ハッサンは、家で一頭だけ飼っている牛を、この世ならぬ情熱で大切にしていた。その溺愛ぶりは村の人々すべての知るところで、妻よりも牛を愛するかのような振る舞いに時折からかいを受けながらも、つねに牛の身体を気づかい優しく声を掛けるハッサンの姿は、村の日常的な光景になっていた。
ところが、ハッサンが町へ出かけた翌日、牛が小屋で血を流して倒れているのが見つかる。妻の叫び声で駆けつけた村人がおそるおそる身体をあらためると、とうにこときれている。どうやら小屋へ忍び込んだヘビに噛まれて絶命したらしい。村人たち全員を集めた協議が始まる。
牛の死を知れば、ハッサンは自分の命も捨ててしまいかねない。牛が小屋から自ら逃げ出したことにしてはどうだろうか。そしていま村の者が牛の後を追っている。いずれきっと牛は戻ってくる。そうハッサンに伝えて、いずれ彼が落ち着いたころに真相を話せばよい。村人は総掛かりで死んだ牛を小屋から引き出して地面に埋め、口裏を合わせる。しかしあれほど大切にしていた牛が逃げ出したという話を、ハッサンは本当に信じるだろうか。そして数日後、ついにハッサンが村へ戻ってくる ─ 。
初期のメールジュイはイタリアのネオレアリスモの影響が色濃いと言われるけれども、いま見直してみると、ごくシンプルな舞台でわずかな数の登場人物が展開する濃密な会話劇、ユーモアと不気味さが隣り合わせになった不思議な物語は、むしろチェーホフやゴーゴリのようなロシア戯曲の伝統を思わせる。村人たちの素朴な表情に対する思いきりのよいクローズアップも、ドキュメンタリー的手法を学んだのはもちろんだが、旧東欧の映画のように、ジガ・ヴェルトフ以下のソビエト映画の系譜に連なっているんじゃないだろうか。
村に戻ってきたハッサンは、牛の不在を知らされ茫然自失となる。そして村人の心配をよそに、ハッサンは屋根にのぼっていつまでも平原の彼方を見つめつづけ、少しずつ心を狂わせてゆく。ハッサンと村人の視線の交錯、荒涼として人を寄せつけぬ風な平原のショットを重ねながらハッサンの狂気を描いてゆく手腕は、たいへん見事。メールジュイの『牛』はヴェニス映画祭で批評家からきわめて高い評価を受け、イランの映画が初めて国外で広く認知される作品となった。
メールジュイの『牛』はイラニアン・ニューウェイヴの先駆けとして語られることが多い。ただしこの映画が作られたのは1969年で、イラン革命まではまだ十年を待たなければならない。アッバス・キアロスタミが世界的な名声を獲得してイラン映画の豊穣さに人々が驚くのは、それからさらに十年後である。
映画『牛』は、革命以前のイランに豊かな演劇的蓄積があり、すでに国外の映画への研究が進んでいたことをうかがわせる貴重な傑作だと思う。
英語圏でのイラン映画のスカラシップは、ここ十年ほどでそれなりに盛んになってきているらしい。直接にはおそらくキアロスタミ登場の衝撃が大きかったのだろうが、ディアスポラ研究・ポストコロニアル批評の枠組みに格好の題材を提供してくれることも大きいのだと思う。米国在住の研究者 Hamid Naficy による四巻本の通史は、この分野での事件。
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