母と娘 ─ No Home Movie
- Jay
- 2023年5月12日
- 読了時間: 2分
更新日:2023年10月8日
「母親と娘」を主題にしたドキュメンタリーは、たまらなく愛おしい部分と、どうしようもなく許し合えない厳しい部分とが混在することがよくあります。これはその代表のような作品です。
シャンタル・アケルマン『ノー・ホーム・ムーヴィー』(2016)
アケルマンは自分でソニーの簡易カメラを握り、老いた母親の日常をとらえます。手ぶれピンボケ上等、母親の顔すら上映開始から30分以上経つまでまともに映りません。しかしスカイプ越しの画面で「愛しているよ、あなたのことを」と笑顔でつぶやく老いた母親の映像に、最大限のズームをかけて撮影するシーンなんて、ほんとうに心を動かされます。娘は、死へ向かっている母親の、手の届かない素顔に、それでも手を伸ばそうとしています。
この二人の関係は、しかし母親の老いが深くなってくると、しだいに崩れ始めます。母親のフランス語は曖昧で不明瞭になり、近親者以外にはほとんど聞き取れなくなります。あれほど娘を褒めて愛情の言葉だけを送っていた母親が、小さな不平を口にしつづけるようになります。
それと呼応するように、アケルマンの撮影する画面は、だんだんと輪郭が失われて、逆光で真っ白にとんだ道路、すっかり光を失って暗闇になったトンネルの中、といったショットが重ねられてゆきます。
アケルマンの母親はユダヤ人で、アウシュヴィッツからの生還者という壮絶な過去を持っているのですが、それに触れるアケルマンの言葉は、家政婦を相手に、覚え立ての片言のスペイン語で語られます。つまりこの映画がもともと想定しているフランス語を理解する観客には、ほとんど断片的にしか理解できない。
ですから冒頭からこの映画をていねいに見てゆくと、言葉がどんどん破片になり、愛情の手渡しが拒否されてゆき、世界は酷薄さを増してゆくのです。
日本で見るときにはこの点について注意が必要で、日本語字幕はすばらしい翻訳なのですが、すべてが翻訳されてしまうために、こうした次第に大きくなる齟齬と摩擦の感覚が、字幕だけを追っているとよく分からない。
母がこの世を去ったことは作品では明示されず、ただ空っぽの室内がまっすぐ映し出されるだけです。そしてこの作品の完成からまもなく、アケルマンも自ら命を絶つことになります。
「母親と私」をテーマにした作品としてはジョナス・メカス『リトアニアへの旅の追憶』とならぶ傑作で、映像が力をもつとはどういうことか、何が映像に意味を与えるのか、見終わったとに深く考えこんでしまう映画だと思います。
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