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  • 2024年10月12日

NY映画祭、27本目。バウハウスに学んだ天才建築家がアメリカへ渡り、そこでメガロマニアックな大富豪に見出されてブルータリズムの巨大建築にのりだす。



オープニングはすばらしい。つっと小部屋へ駆け込んできた娘が、緊張した面持ちで尋問を受ける。遠くで響いている爆撃音。画面は暗闇を走る男をフォローするカメラへ切り替わり、長い長いブラックの背景を彼は走りつづける。すると突然、闇の中で扉が開いて外の白い空が広がる。扉をくぐって外に出る男、そこはアメリカへ到着した避難船の甲板で、自由の女神の映像が空に大きく飛びこんでくる。… 息を呑むような疾走感の前半。ここの編集感覚の新しさは、重々強調すべき。


しかし3時間半が終わってみると、竜頭蛇尾大作のまさに典型というほかない。責任の過半は脚本で、中盤以降は回収されない伏線・唐突なエピソード追加に観客はふりまわされるけども、それを粗さの多い編集と、俗な感覚の演出が助長している。 音楽はすぐれていて、主演男優・助演女優もオスカーに食いこむのでは。でもそれはそれ。

ところでリンカーンセンターでは、この日だけ 70mm フィルム上映。これでみる序盤までの多幸感はすばらしくて、薄暗い室内へさしこむオレンジの光の中で若い女がふいっと振り返るショットの輝きなんか、忘れがたい。 さらりとこんな上映ができるのはNYならでは。





『エイリアン:ロムルス』で面白かったのは錯綜した未来観。



第1作(1979)の「すぐ後」という設定なので、winなしmacなし液晶なし…70年代テクノロジーの時点から想像した未来像なのですね。そこに進化論とAIという今風の視線が交じりこむ。


劇中の人々/観客の情報差をこまかく増減させながら、精密なクロスカッティングで物語の速度と緊張を自在にあやつる ─ というクラシカルなスリラー映画技術の、まさに教科書。


「すべてが第1作の影の中にある」感は仕方がないけども、その範囲でかなり周到につくられていると思う。


ところで昔の登場人物(演じていた俳優はすでに死去)をAIで再生した新規シーンがあって、その精度は驚くばかり。



  • 2024年9月7日

俳優のブロッキングと編集でリズムを生み出して、それが文体として独立しているので、物語に依存しない、映画固有の形式があざやかに構築されている。 すばらしい才能で、濱口竜介さんに匹敵する新しい監督がこれほどすぐに登場するとは、まったく予想できなかった。


Desert of Namibia (2024) Yamanaka Yoko(山中瑶子『ナミビアの砂漠』)


ナラティブの回収をこころみる終盤の展開は意見が分かれるはずだけど、通俗への転落をぎりぎり回避してはいるかもしれない。 〈登場人物の狂気〉は要するに形をかえた夢オチにすぎないので、説得的に回収するのはもともと至難の業。ここは脚本上の瑕瑾。


主演の河合さんはたいへん見事。ひそひそっと口先で話す、勢いに乏しい今の日本語の発声にここまでリアリティを与えた例って他にあまり思い当たらない。 もっとも他の俳優がそれほどでもないのは、濱口式の独自の演技指導メソッドがあったわけではなく、属人的な化学反応のゆえなんだろうか。


近年の日本映画として文句なく最高の成果のひとつだけど、宣伝はちょっと的外れ気味。これは凡庸すぎる「都会の隅で格闘する若い女」物語ではなく、『PERFECT DAYS』や『パラサイト』のように映画としての形式面の完成をこそ見なければ。




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