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Dark Waters (2019) dir. Todd Haynes


この秋に公開されたトッド・ヘインズの新作 Dark Waters は、化学品メーカーのデュポン社が引き起こした大規模な環境汚染事件を描く。


アメリカ中西部の町シンシナティで企業訴訟を手がけていた弁護士ロブ・ビロットは、ある日、畜産農家の男から訴訟依頼を受ける。男は大量のビデオテープを事務所へ持ち込み、そこには男の飼っていた牛が突然異状をきたして次々に死んでゆく様子が記録されていた。


男は、農園に隣接するデュポン社が関わっているはずだと主張して、デュポン社を訴えたいのだと言う。しかしビロット弁護士と彼の事務所にとって、中西部屈指の巨大企業であるデュポン社は最も重要な顧客で、法務担当者に知人も数多かった。かれらを訴えるのは気乗りしないし、大企業を相手にした農夫の戦いに勝ち目があるようにも見えない。


ビロットは依頼を断ろうと農夫の家を訪ねる。しかし彼はそこで、周囲の川や林に流れる黒いよどんだ汚水や、牛の遺骸が所狭しと埋められた裏庭を目の当たりにして、しだいに事件の重大さに気づく。本腰を入れて調べ始めると、デュポン社が環境汚染の可能性を知っていながら、自社の利益のために、地元民ばかりか広い範囲でアメリカ人消費者の健康被害を無視しつづけた実態が浮かび上がってきた。


DARK WATERS - TRAILER

これは実にオーソドックスな政治スリラーで、アメリカ映画ではこのジャンルが定期的に作られる。近年の代表例は、アラン・J・パクラ『ペリカン文書』(1993)や、スティーヴン・ソダーバーグ『エリン・ブロコビッチ』(2000)、ガス・ヴァン・サント『プロミスト・ランド』(2012)あたりだろうか。


政治性の強い映画に著名な監督やスターが集まるのもアメリカ映画の面白いところで、今回も『アベンジャーズ』のマーク・ラファロを筆頭に、ティム・ロビンス、アン・ハサウェイが出演者に名連ねた。

トッド・ヘインズは、本来『エデンより彼方に』や『キャロル』に見られたように作家性の強い監督だが、今回はそれを完全に封印して、メッセージを伝達する「器」としての映画を製作することに専念した。ここでのヘインズはアーティストではなく、周到に事業計画を立てて、スケジュールと資材を厳密に管理しながら製品をつくりあげる有能な職人である。訪れた農園で弁護士が見た、曇天に沈むひっそりとした黒い森・静かに狂い始める牛たち・農夫の怒りと怯え、ヘインズはこれらのショットを揺るぎない正確さでカメラに収めてゆく。そこでは芸術性よりも、メッセージを観客へ確実に伝達することが何よりも優先されている。


そしてマーク・ラファロ他の俳優たちも、俳優個人としての野心は後回しにして、振り当てられた役柄を物語へ適切に流し込むことに集中した。その結果として作品全体で強く印象づけられるのは、「ハリウッド映画」というシステムの、メッセージ伝達装置としての優秀さである。


たとえば英語がまったく分からない人がこの作品を字幕なしで見ても、「デュポン社がひどい環境汚染を引き起こしたらしい」「弁護士は事務所内・家庭内の葛藤に負けず戦ったらしい」「デュポン社は膨大な補助金を地元に落とし、訴訟には地元民の間でもはげしい分断を生んだらしい」 ─ というようなことが、くっきり分かると思う。メッセージを映像だけで正確に伝え、しかもそれを観客に強く印象づけるという「器」としての機能が、この映画はきわめて優れているからだ。


しかしそのぶん「同工異曲の政治スリラー」という感想が浮かぶのも避けがたいところで、作品としての評価は人によって分かれると思う。それはここに盛り込まれている政治的メッセージの是非・適切さとは別の問題である。


ニューヨークのフィルム・ソサエティでは、一般公開に先立つ会員向け試写にトッド・ヘインズとマーク・ラファロが登壇した。ラファロは実に熱心かつ詳細にデュポン公害を語っていて、この映画の製作には個人的な信念をもって臨んだことをうかがわせた。彼やティム・ロビンス、アン・ハサウェイが出演し、トッド・ヘインズが監督する作品は、必ず世界各国で注目される。自分たちの影響力をきちんと把握して、それを信条に沿って行使することを厭わない、これもハリウッド映画界の伝統といってよいと思う。


ちなみに現実のデュポン社の公害訴訟は、弁護士の20年におよぶ法廷闘争のすえ、デュポン社側が訴えの大筋を認め、巨額の賠償金支払いで合意したとのこと。

映画が下敷きにしているのは、2016年に『ニューヨークタイムズ・マガジン』に掲載された記事。影響の広範さについては『フォーチュン』誌の記事がまとまっている。

(追記 2021.11.11)アメリカでの公開から遅れること2年、2021年の冬に日本でも公開が決まった。




The Cow (1969) dir. Dariush Mehrjui


 ダリウシュ・メールジュイ『牛』は近代化の恩恵いまだ遠く、イランの草原の果てに人々が身を寄せ合って暮らす小さな集落が舞台。中年の逞しい男ハッサンは、家で一頭だけ飼っている牛を、この世ならぬ情熱で大切にしていた。その溺愛ぶりは村の人々すべての知るところで、妻よりも牛を愛するかのような振る舞いに時折からかいを受けながらも、つねに牛の身体を気づかい優しく声を掛けるハッサンの姿は、村の日常的な光景になっていた。


 ところが、ハッサンが町へ出かけた翌日、牛が小屋で血を流して倒れているのが見つかる。妻の叫び声で駆けつけた村人がおそるおそる身体をあらためると、とうにこときれている。どうやら小屋へ忍び込んだヘビに噛まれて絶命したらしい。村人たち全員を集めた協議が始まる。


牛の死を知れば、ハッサンは自分の命も捨ててしまいかねない。牛が小屋から自ら逃げ出したことにしてはどうだろうか。そしていま村の者が牛の後を追っている。いずれきっと牛は戻ってくる。そうハッサンに伝えて、いずれ彼が落ち着いたころに真相を話せばよい。村人は総掛かりで死んだ牛を小屋から引き出して地面に埋め、口裏を合わせる。しかしあれほど大切にしていた牛が逃げ出したという話を、ハッサンは本当に信じるだろうか。そして数日後、ついにハッサンが村へ戻ってくる ─ 。


 初期のメールジュイはイタリアのネオレアリスモの影響が色濃いと言われるけれども、いま見直してみると、ごくシンプルな舞台でわずかな数の登場人物が展開する濃密な会話劇、ユーモアと不気味さが隣り合わせになった不思議な物語は、むしろチェーホフやゴーゴリのようなロシア戯曲の伝統を思わせる。村人たちの素朴な表情に対する思いきりのよいクローズアップも、ドキュメンタリー的手法を学んだのはもちろんだが、旧東欧の映画のように、ジガ・ヴェルトフ以下のソビエト映画の系譜に連なっているんじゃないだろうか。


 村に戻ってきたハッサンは、牛の不在を知らされ茫然自失となる。そして村人の心配をよそに、ハッサンは屋根にのぼっていつまでも平原の彼方を見つめつづけ、少しずつ心を狂わせてゆく。ハッサンと村人の視線の交錯、荒涼として人を寄せつけぬ風な平原のショットを重ねながらハッサンの狂気を描いてゆく手腕は、たいへん見事。メールジュイの『牛』はヴェニス映画祭で批評家からきわめて高い評価を受け、イランの映画が初めて国外で広く認知される作品となった。


 メールジュイの『牛』はイラニアン・ニューウェイヴの先駆けとして語られることが多い。ただしこの映画が作られたのは1969年で、イラン革命まではまだ十年を待たなければならない。アッバス・キアロスタミが世界的な名声を獲得してイラン映画の豊穣さに人々が驚くのは、それからさらに十年後である。


 映画『牛』は、革命以前のイランに豊かな演劇的蓄積があり、すでに国外の映画への研究が進んでいたことをうかがわせる貴重な傑作だと思う。

英語圏でのイラン映画のスカラシップは、ここ十年ほどでそれなりに盛んになってきているらしい。直接にはおそらくキアロスタミ登場の衝撃が大きかったのだろうが、ディアスポラ研究・ポストコロニアル批評の枠組みに格好の題材を提供してくれることも大きいのだと思う。米国在住の研究者 Hamid Naficy による四巻本の通史は、この分野での事件。


  • Jahed, Parviz ed. Directory of World Cinema: Iran, Bristol, UK: Intellect Books, 2012.

  • Kazami, Farshid, "Iranian Cinema", Oxford Bibliographies, 2018.

  • Mottahedeh, Negar, Displaced Allegories: Post-Revolutionary Iranian Cinema, Durham, NC: Duke University Press, 2008.

  • Naficy, Hamid. A Social History of Iranian Cinema, 4 vols., Durham, NC: Duke University Press, 2011.

  • Naficy, Hamid. "Iran (Persia)." Encyclopedia of Early Cinema, ed. by Richard Abel, Routledge, 2010.

  • Seyed-Gohrab, A. A. And K. Talattoff eds., Conflict and Development in Iranian Film, Leiden, Netherlands: Leiden University Press, 2012.

  • Shahab, Esfandiary, Iranian Cinema & Globalization: National, Transnational and Islamic Dimensions, Bristol, UK: Intellect Books, 2012.

  • Sheibani, Khatereh. "Film and Media." In Encyclopedia of Islam and the Muslim World, ed. by Richard C. Martin. Gale, 2016.

On Chesil Beach (2017) dir. Dominic Cooke

チェシル・ビーチはイギリス南部にある景勝地で、海に長い砂浜が突き出た不思議な眺めで知られている。

主人公は、そこへ新婚旅行にやってきた若くて教養のある男女二人。時代は1962年。二人はこの日、結婚式を挙げたばかり。そしてともにセックスの経験がなく、これから迎える初夜に、互いに怯えていた。男が女へ手を伸ばし、ベッドへ横たわる、そのわずかなあいだに二人の中でこれまでの幸せな日々・不幸な事件の記憶がよみがえってくる。その記憶と、これから行う行為の結末が、実は後の人生を大きく変えてしまうことを二人はまだ知らない。

いろいろ不器用なカメラと編集ながら、英国のことばの響き・曇天・美しい景観を上手に使って良い感じに仕上げてしまうのはBBC Filmsならでは。Saoirse Ronanが世慣れない英国の娘になりきっていて見事だけど、ブルックリン生まれなんですね。

イアン・マッキューアンの原作自体が抱えている物語の欠陥は、ちょっと仕方がない。大学シーンはどこで撮ったかと思ったらマンスフィールドらしい。

BBC Filmsの作品では『17歳(An Education)』が同様の空気感だった。新進女優 (Carey Mulligan) を抜擢して成功したのも同じ。


Disobedience (2018) dir. Sebastián Lelio

主人公の女性は小さな田舎町でユダヤ教のラビ(宗教指導者)の娘として生まれたが、父親に反発し、家を飛びだしてニューヨークで写真家になる道を選んでいた。ある日、父親が急死。町へ戻ってきた彼女は、寸分も変わらず続けられている宗教儀式と、家を出たときそのままの抑圧的な人間関係を目にする。

そして彼女は、町に残っていた女の恋人と再会した。その恋人はすでに幼馴染みの男と結婚していたが、二人は人目をしのんだ密会を始める。信仰が命じるあらゆる禁忌を破るこの密会が、こうあるべきと振り当てられた役割への意図的な〈不服従 disobedience 〉に発展してゆく。

米国のJewish Film は長い歴史があるけれども、ユダヤ人女性の性志向と信仰の相剋というテーマは比較的珍しい。画面の全体が静謐で沈滞したトーンにまとめられていて、女優二人の演技は、かれらが恐れと情熱を行き来する様子に、ていねいに輪郭を与えている。もっとも物語は、これも少々甘めかもしれない。


追記。その後 On Chesil Beach は『追想』の邦題で公開された(マキューアンの原作は『初夜』)。Disobedeience は『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』の邦題で2020年2月に公開予定とのこと。2019.12.3.

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