歴史2016年5月17日経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史からなにかを学ぶといったことは一度たりともなく、歴史からひきだされた教訓にしたがって行動したことなどまったくない、ということです。…世界的事件の渦中にあっては、一般原則も、類似の出来事の記憶も、なんの役に立つはずもなく、というのも、色あせた記憶をもってしては、生気と自由にあふれた現在にとても太刀打ちできないからです。 ヘーゲル(長谷川宏訳)『歴史哲学講義』岩波文庫、上巻, p. 19.
経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史からなにかを学ぶといったことは一度たりともなく、歴史からひきだされた教訓にしたがって行動したことなどまったくない、ということです。…世界的事件の渦中にあっては、一般原則も、類似の出来事の記憶も、なんの役に立つはずもなく、というのも、色あせた記憶をもってしては、生気と自由にあふれた現在にとても太刀打ちできないからです。 ヘーゲル(長谷川宏訳)『歴史哲学講義』岩波文庫、上巻, p. 19.
論理2015年11月9日言語はおおむね、歴史的な偶然の産物と了解するのが適切だろう。人間の基本的言語は昔から、様々な形で私たちに伝わっているが、多数が存在すること自体、言語には絶対的なところも必然的なところもないことの証だ。ギリシア語やサンスクリットのような言語が生まれたのは歴史的事実であって、論理的必要性によるものではないのとちょうど同じで、論理学と数学もまた、歴史的・偶発的な表現形式と見なすのが理にかなっている。つまり、私たちに馴染みのあるもの以外の形でも存在しうる。実際、中枢神経系とそれが伝達する通信系の特質から、それがはっきり見て取れる。 フォン・ノイマン(柴田裕之訳)『計算機と脳』(ちくま学芸文庫, 2011, p. 113)
言語はおおむね、歴史的な偶然の産物と了解するのが適切だろう。人間の基本的言語は昔から、様々な形で私たちに伝わっているが、多数が存在すること自体、言語には絶対的なところも必然的なところもないことの証だ。ギリシア語やサンスクリットのような言語が生まれたのは歴史的事実であって、論理的必要性によるものではないのとちょうど同じで、論理学と数学もまた、歴史的・偶発的な表現形式と見なすのが理にかなっている。つまり、私たちに馴染みのあるもの以外の形でも存在しうる。実際、中枢神経系とそれが伝達する通信系の特質から、それがはっきり見て取れる。 フォン・ノイマン(柴田裕之訳)『計算機と脳』(ちくま学芸文庫, 2011, p. 113)
琳派2015年10月31日「舞楽図」を見ていると、宗達が桃山時代の金碧障屛画のような豪奢とは別なところに発見した豪奢というものが響いてくる。「舞楽図」の単純化された豪奢は、まさに飛切りの豪奢である。ここには衰弱した趣味もなければ、貧血症状もなく、成金の多血質もなければ、禅坊主のドグマもなく …要するにもっとも均衡のとれた豪奢があって、それこそ豪奢の本質だとわれわれは気がつくのである。宗達の作品には、趣味のよすぎるもののもつ弱さがない。 三島由紀夫「俵屋宗達」(『三島由紀夫全集』第29巻, 新潮社, 2003)
「舞楽図」を見ていると、宗達が桃山時代の金碧障屛画のような豪奢とは別なところに発見した豪奢というものが響いてくる。「舞楽図」の単純化された豪奢は、まさに飛切りの豪奢である。ここには衰弱した趣味もなければ、貧血症状もなく、成金の多血質もなければ、禅坊主のドグマもなく …要するにもっとも均衡のとれた豪奢があって、それこそ豪奢の本質だとわれわれは気がつくのである。宗達の作品には、趣味のよすぎるもののもつ弱さがない。 三島由紀夫「俵屋宗達」(『三島由紀夫全集』第29巻, 新潮社, 2003)