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  • 2015年9月14日

 しら刃もてわれにせまりしけはしさの消えゆく人をあはれと思ふ

(与謝野晶子『佐保姫』(1909)。かつて必死の形相で女に迫ったあの男から、しだいに峻厳な気配が消えてゆく。世事に追われる故か、年齢の故か。その喪失に、もはや作者は同情しない。)

 女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季

(富小路禎子『未明のしらべ』(1956)。「季」は「とき」と読ませる。自分の身体が抱える「種」をかえすことなく年齢を重ねていることが、まるで罪であるかのようだと。もちろん単なる自省や悔恨ではないが、世を怨む声からも作者は距離を置いている。)

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

(馬場あき子『桜花伝承』(1977)。年々歳々、咲いて散ってを繰り返す桜の幹を流れる水の音が、自らの身体の奥にも響いているのを聞きとった。この歌集を刊行したとき作者は49歳。)

  • 2015年9月13日

わが方では「節度」が戦い、敵方では「放縦」が攻める。こちらの「羞恥心」に対しては、あちらの「破廉恥」が戦い、こちらの「誠意」に対しては、あちらの「欺瞞」だ。またこちらの「忠誠心」に対してあちらの「背徳」が、こちらの「固い意志」に対しては、あちらの「狂乱」が戦う。さらにこちらの「品位」にはあちらの「不面目」、こちらの「自制」にはあちらの「淫蕩」である。要するに、正義、節制、勇気、分別というすべての美徳が、不正、放縦、卑怯、無思慮といったあらゆる悪徳と戦っているのである。また、結局この戦いは、富裕対窮乏の、正論対邪論の、正気対狂気の、そして堅実な希望対底無しの絶望の争いなのである。こうした類の闘争と戦闘では、万一人間の気力が挫けても、不滅の神々こそが、かくも多くの憎むべき悪徳に力をふるい、崇高なこれらの美徳の前に屈服させるのではないだろうか。


Ex hac enim parte pudor pugnat, illinc petulantia; hinc pudicitia, illinc stuprum; hinc fides, illinc fraudatio; hinc pietas, illinc scelus; hinc constantia. illinc furor; hinc honestas, illinc turpitudo; hinc continentia, illinc libido; hinc denique aequitas, temperantia, fortitudo, prudentia, virtutes omnes certant cum iniquitate, luxuria, ignavia, temeritate, cum vitiis ombnibus; postremo copia cum egestate, bona ratio cum perdita, mens sana cum amentia, bona denique spes cum omnium rerum desperatione confligiy. In eius modi certamine ac proelio nonne, si hominum studia deficiant, di ipsi immortales cogant ab his praeclarissimis virtutibus tot et tanta vitia superari?

キケロ(小川正廣訳)「カティリーナ弾劾(第2演説)」(『キケロー選集:3 法廷・政治弁論 III』岩波書店, 1999, pp. 47-48) Cicero, "Oratio In L. Cantilinam Secunda," in Cicero X: Orations, Harvard UP Loeb, 1977, p. 94.

  • 2015年9月12日

大殿(シニョーレ)が仏教徒や坊主たちを眺めるとき、一種の不潔な、けがれた獣でも見るような顔つきをしたが、そんな折、彼の口からきまってとびだすのは、「あいつらの知識は全くの空念仏にすぎぬ。何ものも動かすことができぬのだ。私に必要なのは、その知識が真実であって、それによって、実際に物事を動かしうるような知識なのだ」という言葉だった。


辻邦生『安土往還記』新潮文庫, p. 185.

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